日曜の夕暮れ毎週あたり前のように繰り返されることであるが、五日間の長い勤務日を経て、ようやく土曜日に休みが貰える。そして何をしようかと考えながら知らず知らずに眠りこけてしまい、日曜の朝がやってくる。そしていよいよ気持ちが整い始めて日曜の午後が過ぎ、気が付けば日曜の夕方。その事実にあたふたしているとサザエさんが始まり、いよいよ憂鬱になってくる。こんな繰り返しの日々にもう飽き飽きしているはずなのに、そういう生き方しかできない。鉄の鎖に己を縛り付けながら、苦しむ自分を眺めそれ以外に何もできないと弁明するこの日々から如何に解放されるか。こうした自問自答を文章にしたところで何の救いもある訳ではないけれど、一応文章に残しておけば、先週の自分の同じことを考え、馬鹿々々しく毎週過ごしていることついて、己に突きつける証拠となることは間違いない。ともあれ、こうして一日が過ぎていく。とりあえず何もできないが、西を向けばそれなりに美しい夕日を拝むことができる。まずはそこから始めようとするか。2016.04.24 10:08
法事を終えてあれから16年の歳月が過ぎたのかと思うと、確かに驚かずにはいられない。しかし、あの春の穏やかな日に祖母が逝いた時、私はほんの子供で、成人式さえ終えていない年齢だったのだ。故郷から東京に出てきてわずか2週間あまり。訃報を聞いて故郷に帰ることになるなんて誰が予想できただろうか。早朝にそれを知って長い電車の岐路をほとんど何も考えることもなくただ車窓だけを眺めていたような気がする。誰の葬儀の時も同じように私はその臆病さゆえにそれに向き合うことが出来ないのだ。それを頭で感じても心で受け止めることが出来ない。そうして幾度となくやり過ごしてきたのである。16年が経過し、あの日の事がようやく自分の心の中で感じることが出来たような気がする。この春の穏やかな日和の中、墓参を済ませ、遠くから鶯の鳴き声がした時である。人は誰も大切なことを教えてくれない。教えてきたのは自然の風景である。自然の中に一人たたずむとき、ようやく心の奥から感じ取ることが出来るのである。その後、家族と食事をして改めて思うこと。こうして何気なく穏やかな日を過ごせることに、感謝せずにはいられないのだ。2016.04.23 12:17